生きていく上で感情は必要なのだろうか。
感情とは喜び、信頼、恐れ、驚き、嫌悪、怒り、期待
そんな感情があった所で生きていく上では必要のないものだと考える。
感情があるからこそ人は生きる意味があるのだろうか。
感情があるから人は幸せを感じるのだろうか。
否、全ては脳内伝達した一種の信号に過ぎない。
人が生きていく上で感情は不要だ。
人の本質はそこにはない。
電車でよく死んだ魚のような目をしている会社員がいるだろう。
働く上でも感情は必要ない。
何かに期待しても疲れるだけだ。
どれだけ頑張ろうと給料は増えない。
そんな小さな絶望が積み重なってみんなの感情は死んでいくのだろう。
だが、それでいいんじゃないのだろうか。
効率的に生きていく上で感情なんて不要だ。
毎日同じような日々の積み重ねで何が変わる何が起こる。
自分はあまり感情がわからないからこそ、自分の考えを正当化したいだけなのかもしれない。
結局人なんてそんなものだ。自分が可愛いからこそ、自分の正しい何かに理屈を付けて考えてしまう。
正しさとは何か、生きる意味とは何か。
それはその人が決めていることであって正しさなんて初めから存在しないのかもしれない。
感情がわからない。環境的要因もあるのだろう。
アレキシサイミアかもしれない。
自分は他人よりも感情よりも優先するものがあった。
ただそれだけなのだ。
それは生きることだ。身体的問題ではなく、精神的問題だ。
感情なんて余白は脳内に必要なかったのだ。
それでも存外生きていけるものだ。
初めから感情を知っていたら必要と感じていたのかもしれない。
いや、正しくは感情を感じにくいというべきだろうか。
だからこそ、わからない。
感情的になる人や感情にコントロールされている人は。
人の本質はそこにはない。
つまりそれは本質とはかけ離れた欺瞞に満ちた世界だ。
人とは自分の核があり、そこに何かしら内包されたエナジーがあり世界があるものだ。
世界を変えたいと
人はなかなか変わらない。
けれど世界が変われば、人も変わらざるを得ない。
つまりそのフィルターを変えてしまおうという話だ。
もしそれが可能ならば、精神的ではあるが世界を一つにすることは可能なのではないだろうか。
そんなことをふと思った黒豆なのでした。